おれの日記

思いつき記録

恋人(?)ができて思ったこと

数ヶ月経ったので。
ちなみに今まで私にちゃんと「恋人」という肩書きの人がいたことはありませんでした。

楽しい恋話ではないですが、私の感じ方をチョロっと見てみたいと思う人がいたら読んでみてください。短いので!



はじめに、私は恋愛感情というものがおそらく理解できていません。恋人に対しても恋愛感情をもって好きと言えないでいます。特に目的や結論があるわけではないことをつらつら書いています。よろしくお願いします。

ついこの前、恋人との距離感は他の誰とのそれとも違うものだと言われた。また、世間的な「恋愛関係」というものが一部の人々の間では共通認識として存在すると。これは私の人に対する距離感がおかしい、思わせぶりだと恋人に言われたときの話だが、この距離感をカテゴライズするという意識は、全ての人との関係性が異なるものであり人が二人いるあいだには必ず唯一の関係性が生まれるはずだという私の考えと上手く噛み合わなかった。「恋愛とは」がわからない私にとってこれを理解するのはハードルが高そうだ。

恋人と関わり合うなかで、自分の世界に他者の侵入を許すことができても(もちろん「恋人」に限らずだ)自分の世界で語り手となりうるのは自分だけだということ、また、他者のなかにできる自分の世界のレプリカは、あまりにも本物とかけ離れているということを再確認した。いくら自分のことを理解しようとしてくれようとその人の世界で私が語ることはできないし、同じように自分の世界では自分以外の誰も口無しなのだ。
恋愛感情とは何か尋ねるなかで、特定の人物のことをもっと深く知りたい、心の中を覗きたいという欲求を挙げる知人が多かった。また同時に自分自身のことも知ってほしいと答えた者も多かった。
「知ること」と「理解すること」を区別するのは少しばかり難しい。私の考えでは、「知ること」におそらく間違いはない。動作主に大きく委ねられるのは、知ったことを「理解する」段階においてだ。当人という正解が存在する以上は、複数の解釈は存在しない。正解以外はすべて誤解となる。
この行為の目的は共同生活の基盤を作ることだと思う。矛盾するようだが文化的に形成された本能、という感じがする。

私は、どういうわけか幼いころ自分の本心を知られることに対して異常なまでの恐怖を覚えていた。何が好き?と言われると大抵一番嫌いなものを答えていた。おそらくこれは、知られることによって相手の想像を膨らませ誤解されることを恐れていたのだ。はじめから間違っていれば、誤解など起こりようがない。おそらく期待されるのが怖いという私の立場は、ここへ繋がる。皆さんは理解されるのが怖いと感じたことはあるだろうか。それとも、理解されないことが怖いだろうか。誤解されるのが怖いだろうか。
ところで、恐れというのは感情ではなく情動であるとされている。情動とは無意識的に引き起こされる身体的反応のことだ。当然ながら、「怖い」という語の意図にはブレがある。言語化した時点で曖昧性から逃れることはかなわないが、ヒトないし生物の本能に結びつく可能性のある感覚なのではないかと思う。

最後になるが、人、そして自分自身と向き合うのはとても難しい。同じ瞬間を指一本で何度でも反復できて、世の中にいるいろいろな人の表面的な部分をいくらでも知ることができる日常。人の数だけある強さや弱さや美しさや醜さ、その全ての本質は瞬間ごとに揺れ動いている。そういうことを確かめるのが恋愛なのではないかと、今の私は考えている。


纏まらない文章をここまで読んでいただきありがとうございます。ごく一部分を抽出して繋げたので、つぎはぎになってしまいました。これらのことを書き起こす動機を与えてくれた「恋人」には少なからず感謝しています。尤も、感謝と好意を混同するようなことはあり得ないのですが…。