意味と論理と正しさと
他人を見ていると、どうしてそんなに馬鹿なんだ、そんなことはすべて無意味に違いない、と言いたくなるときがある。
だが同様に、私にとって意味のあることは他人にとって無意味かもしれない。
また、なぜこの程度のことが理解できないのか。なぜ破綻した論理を堂々と掲げて、他者からの忠告や指摘が耳に入らないのか。こう思うときもある。
しかし、本当に理解できていないのは実は私のほうかもしれない。
何か正しくて、何が間違っているか。
トマトが美味しいか、美味しくないか。深い赤を官能的と感じるか、猟奇的と感じるか。ヘヴィ・メタルを素晴らしい音楽と思うか、煩いだけの騒音と思うか。
価値観は、個人の持つ経験を含めたあらゆる性質によって形成される。それは固有のものであり、そうであるからして、共有され得ない。
自己と他者は似ているようで全く異なる。認識の形態、思考様式、行動様式、アウトプットのプロセス(突然横文字になってしまった)、全てが異なるのだ。そしてそのことに、人は誰しも少なからず盲目である。そうでない人がいるとしたら、その人はもはや人ではないのだろう。
人ならば、自分と同じく全ての人が固有の正しさを持っていることに恐れ慄くのが、きっと正しい。